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2005 年07 月16 日

哲学的人類学の課題を意味も無く記事として投稿してみる

選択した課題:宮崎駿著『ナウシカ』第七巻の終局部分を参考にして、人為的で合目的的な必然的決定論を批判するアニミズム的な考え方について自由に論ぜよ。

宮崎氏はナウシカにおいて、人類という種がその独自の願望のみで自然界を支配する事は禁忌である、という事、言い換えるならば、人類は自然界に身を委ねるべきである、という事を表現しようとしている。しかしながらその論理は矛盾していると言わざるを得ない。そもそも人類という種が自然に対しどういった対応を行うか、という判断を開始できる力を人類が所有した現代の時点で、逆説的にそれは人類が既に自然を支配してしまっている、即ち合目的的である事に他ならない。自然を生かす事は無論、人類にとって非常に重要な事であるが、生殺与奪の運命を人類が掌握している上でいくら自然の生命を存続させようが、それは自然に対する尊重ではなく、もはや、ただ自然を生かしているに過ぎないのだ。
 例えば、本作中において、道化に乗り移ったヒドラの「人類はわたしなしには亡びる」「お前達はその朝をこえることはできない」という台詞に対し、ナウシカは「それはこの星がきめること」と返答している。この「星がきめる」という考え方自体が既に矛盾しているのだ。その「星」が直接的に、人類の理解できる言語、或いは行動で語りかけてくるはずが無い。自然界の反応に対し、人類が何らかの解釈をしているだけなのだ。
 自然と人類を分断しているという点においても、この考え方における論理の破綻がうかがえる。人類もまた自然界の中で、進化を繰り返して誕生した一つの種である。その人類が合目的的に行動する事のどこに間違いがあるのだろうか。自然は全て合目的的に行動を起こしている。例えばミツバチが花の受粉を手伝うという行動がある。だがこれは無論、合目的的な行動であり、ミツバチは花の蜜を獲得しているに過ぎない。同時に花も受粉という合目的的な行動を起こしている。合目的的な判断を行う事は至極正常な事である。そもそも判断を行う時点で逆説的にそれは合目的である。
 氏は、人類が自然に対し何らかの行動を起こした際の影響を恐れていたのだろう。例えば、山における森林伐採は洪水、土砂崩れを引き起こし、海水における汚染はそこに存在する魚介類を死滅させる。しかしながら、この考え自体も合目的的である。自然界での完全には理解されていない連鎖反応により発生する災害を、人類ができる限り避けようとするものであるからだ。本末転倒な考え方である。人類がより安心して生活できる為に自然を尊重する、というものから、自然を尊重させる為に人類を蔑ろにする、という考え方にすり替わっているのだ。
 宮崎氏は自然を理解する事を避けているとしか思えない。確かに説明できない科学現象は神格化すればそれで済んでしまう。だからとは言え、人類という種を自然に淘汰させてしまうような考え方は行き過ぎである。この地球という「星」が生存する、死滅する、といった運命は、もはやそのような態度では済まされないくらい人類という種が大きく関っているからだ。そして現在この「星」は死滅の方向へと向かっている。しかし、この「星」が死滅へと向かう事を防止せず、放置する事はただの合目的的な逃避にしか過ぎない。アニミズムは、自然界を畏怖する程度の弱い力のみを所有している状態でなければ破綻してしまうとも言える。

投稿者:未定at 16 :06| 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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